こんばんは。
9月後半からラグビーワールドカップが忙しく(^^;)、なかなか展覧会に行けていませんでしたが、昨日(10/18)、久しぶりに行ってきましたのでご報告です。
「没後90年記念 岸田劉生展」
「この世の宝なるものを目指し」
東京ステーションギャラリーで本日10/20(日)まで開催です。
岸田劉生。教科書にも載っていた「麗子」の肖像画はあまりにも有名。(私の頃の教科書ですが。今はどうでしょう?)
日本美術史の中でも強烈な個性を放つ画家。ここまでの作品をまとめて見るのは今回初めてです。簡単ではありますが、少しご紹介を。相変わらず、まとまりのない内容ですが、しばし、お付き合いください。
それでは、さっそく、展覧会場へ!
※ 以下の記述は展覧会のパンフレット、作品説明、図録、そのほかWeb上の解説等を参考に記述しています。また作品の写真は図録、パンフレットを撮りました。
[目次]
I.展覧会概要
(1) 展覧会:「岸田劉生展」
岸田劉生
1891年(明治24)6月23日、東京銀座生まれ。父は実業家の岸田吟香。
1905年(明治38)、劉生15歳のときに父・母を続けて亡くし、キリスト教に傾倒。牧師を目指しますが、画家になるように促され黒田清輝に師事します。1908年(明治41)、劉生18歳のときでした。
1911年(明治44)、雑誌「白樺」からゴッホ、ゴーギャンに衝撃を受けます。その年10月の白樺主催の第2回泰西版画展では陶芸家であり画家のバーナード・リーチと出会い、また武者小路実篤ら、白樺周辺の人物とのつながりが強まります。この頃を劉生曰く「第二の誕生」。ゴッホ、ゴーギャンのほかマチス、セザンヌ等からも影響を受けた時期でした。
その後、劉生は北方ルネッサンスや中世絵画、東洋美術等にも影響を受け、画風も写実的な作品から日本画、技法も油絵から水彩画などと、次々に変転していきます。
自画像、肖像画、家の周りの風景、妻、麗子が生まれてからは麗子をはじめとした子どもの肖像等、その時々で対象は変わりつつも同じモチーフを何度も描き続けました。
1929年(昭和4)秋、松方コレクションで有名な松方幸次郎の弟・松方三郎の斡旋で初めての海外・満州に渡ります。帰国後、同行していた画商・田島一郎の故郷・山口県徳山を訪問しますが、心臓の痛みを訴え、その後、尿毒症を併発し、滞在中の12月20日、38年という短い生涯を終えています。
生涯その絵に情熱を傾け、慈しむべきものを描き続けた劉生。そんな劉生の作品が一堂に会した展覧会です。
(1917年11月。岸田家写真。左から劉生本人、娘・麗子、妻・蓁(しげる)
劉生の絵にたびたび登場します)
(2) 会場:東京ステーションギャラリー(東京駅・丸の内北口)
東京駅前・KITTE(日本郵政)のビル。18:00前。まだ煌煌と光る蛍光灯がシャンパンの泡に光が反射してキラキラ光っているようで、なんだか綺麗で印象的でした。でも、まだみなさん仕事中ということですよね(^^;)
(3) 会期・開館時間・展示替等
2019/8/31(土)~2019/10/20(日) ※ 本日、最終日です。
・休みは月曜です。
・開館時間は10:00~18:00。入館は30分前まで。
・金曜はナイトミュージアム!20:00まで開館です。
近くで会社の研修があったので、帰りにナイトミュージアムで寄ってきました。
(4) 料金
・一般1,100円、大学生・高校生900円(中学生以下無料)
・東京駅でもらえる東京駅周辺美術館MAPを見せると100円OFFになります。
(5) 訪問時間と混雑状況
・10/18(金)の18:00頃に訪問。ナイトミュージアムでしたが会期末ぎりぎりだったので結構、混んでいました。混んでいて見るのが大変というほどではありませんでしたが。最終日はどうでしょう。
・鑑賞時間は75分くらいでした。作品数が結構ありますので、それなりに時間はかかります。
(6) 美術館メモ
・展示の撮影NGでした。
・ミュージアムショップでは、カタログ:2,500円(税込)でした。今回はカタログ購入です。
(7) 行くきっかけ(情報源等)
日経おとなのOFF1月号でも載っていました。前のメスキータ展でも告知がありました。JRの駅の看板、車内でも宣伝されていました。ので、展覧会自体は知っていました。岸田劉生の絵は東京国立近代美術館(竹橋)でも見ていたので、この展覧会を見に行くかは少し迷っていました。が、近くで会社の研修があって、帰りに寄れたので、「では行ってみるか」と思い、見に行きました。(少し消極的な理由ですね^^;)
II. 展覧会所感
(1) 個人的な所感
岸田劉生の絵は個性的で、「好き」とも「嫌い」とも言えない、なんか不思議な感情を抱いていました。「麗子」の絵。写実といえば写実ですが、なにか「異様」(本音は少し不気味)な雰囲気も感じます。風景画も、図録の表紙の「道路と土手と塀(切通之写生)」など写実的で好きですが、土の盛り上がり方など、かなり誇張された箇所もあり、独特です。個々に見ると劉生の強烈な個性が際立つ絵たちですが、一堂に会し、時代を追って見て行くと、そこに劉生の心や体の変遷までもが見えてくるような気がします。岸田劉生の追い求めた芸術が感じられる展覧会だと思います。(私、少し岸田を「好き」になりました)
(パンフレット表面は麗子ちゃんです)
(パンフレット裏面)
さて、いよいよですが、会場の中へ。
(2) 展覧会の構成と気になる作品
こちらの展覧会では、岸田劉生の作風に応じて年代を区切り、その変遷を追って作品が展示されています。
展示構成
今回は最初に展示の構成について記述し、続けて気になる作品をテーマ別でまとめてご紹介します。
まずは展示構成。次のとおりです。
・第一章「第二の誕生」まで:1907~1913
初期の頃の水彩画などから雑誌「白樺」でゴッホ、ゴーギャンに影響を受けた「第二の誕生」までの作品です。
・第二章「近代的傾向・・・離れ」から「クラシックの感化」まで:1913~1915
岸田が影響を受けた「ゴッホの眼・マチスの頭」ではなく岸田本人の眼・頭で描くことを模索した時代の作品です。人の顔をみては肖像画のモデルをさせていたようで「劉生の首狩り」なんて言われていたようです。この頃「自分の最っとも尊敬する人物の一人」とした武者小路実篤の肖像も描いています。
・第三章「実在の神秘」を越えて:1915~1918
デューラーやファン・エイク等の北方ルネッサンスにも影響を受けた時代。風景画に新しい道を見出します。1913年、代々木に転居。周辺の風景を描きますが、1916年に肺病を患い戸外で写生ができなくなります。病気になってからは静物画を描きます。
・第四章「東洋の美」への目覚め:1919~1921
この頃は日本画に、そして東洋の美の伝統に目覚めます。「内なる美」を素早く描くため、水彩や素描にも目覚めます。
・第五章「卑近美」と「写実の欠除」を巡って:1922~1926
初期肉筆浮世絵や歌舞伎に傾注していた頃。関東大震災で居を京都に移し、古美術蒐集などを行っていた時期の作品です。
・第六章「新しい余の道」へ:1926~1929
1924年11月から京都の茶屋遊びで放蕩をしていたらしく、乱れた生活から再起を目指した時期の作品です。そんな頃があったのですね。満州に訪れ、新しい創作への意欲に満ち溢れていたのですが・・・
では、気になる作品です。
「風景画」
「雨」1907年9月17日 水彩、鉛筆・紙
最初期の頃の作品。宇都宮の教会から見た風景。絵の中の洋館は「三光館写真店」とのこと。
「銀座と数寄屋橋畔」1910-1911年頃 油彩・板
銀座の街に赤い日傘が印象的な明るい作品です。少し印象派的でしょうか。
「築地居留地風景」1912年12月23日 油彩・麻布
「第二の誕生」の頃。ゴーギャンの影響を受けているかなぁと思いました。実際の絵の黄色はもっと明るく鮮やかです。
「代々木附近(代々木附近の赤土風景)」1915年10月15日 油彩・麻布
劉生は変わりゆく代々木の町の風景を何度も描いています。この絵に続くのが・・・
「道路と土手と塀(切通之写生)」1915年11月5日 油彩・麻布
重要文化財の絵です。先程の絵の電信柱がこの絵の下の方に2本の「影」として描かれています。写実的ではありますが、坂道の上部が塀より高く描かれているところが岸田のデフォルメした世界で坂の盛り上がりが更なる立体感を生んでいます。
(なお、この写真は2019年5月に訪問した東京国立近代美術館の常設展示(撮影OK)を撮影しています。本展での撮影はNGです)
「満州総裁邸の庭」1929年11月 油彩・麻布
暗く映っていますが、空の青、紅葉の赤など、色鮮やかな絵です。奥の海はすこし深めの青で描かれています。今後の制作への高揚感を感じさせる爽やかな一枚でした。この後、日本に戻って間もなく、その生涯の幕を閉じることになってしまいます。さぞかし残念だったことでしょう。
「静物画」
「壺の上に林檎が載って在る」1916年11月3日 油彩・板
肺病を患い戸外の写生に行けなくなった後の作品。壺はバーナード・リーチ作。大胆な構図です。林檎の絵も何枚も描いています。
「林檎三個」1917年2月 油彩・麻布
この三つのリンゴに劉生、蓁、麗子の三人を託して描いているよう。病気を患い、お金もなかった劉生。少し不安定そうな林檎に自分たちの姿を重ねたのかもしれません。この年、療養のため神奈川県藤沢の鵠沼海岸に転居します。
「竹籠含春」1923年4月9日 油彩・麻布
竹籠の編み目まで細かく忠実に描かれた写実の作品です。「宋元風の花籠を頭におき油画の写実でかっちりとした美を」目標とした作品とのこと(図録説明より)。ここでも東洋の美が頭にあります。
「椿の図」1924年頃 絹本着彩
東洋の美に目覚め、追い求めていた頃の作品。椿も多く描かれています。岸田劉生が日本画も描いていたことは今回、初めて知りました。
「冬瓜茄子の図」1926年夏 絹本着彩
劉生は緑の皮の表面に白い粉を吹く冬瓜を好んで何枚も描いています。これは日本画です。茄子との対比、粉を吹いた様子をデフォルメした色遣い等が目を引く作品です。
「冬瓜葡萄図」1927年10月 油彩・麻布
こちらは油彩で描かれたものです。写実的です。絵の手法でも東洋と油絵とを行き来しています。
「自画像」
「自画像」1912年3月14日 油彩・麻布
「第二の誕生」でゴッホの影響が強かった頃の自画像です。今回の展覧会でも多数の自画像が展示されています。
「自画像」1914年2月13日 油彩・麻布
ゴッホやマチスなどの影響を抜け出し、自分自身の絵画を模索している頃の作品。光の捉え方など、より写実的になっているかと思います。
そして、最初に掲載した美術館の液晶パネル(パンフレット裏)に映る「自画像」は1921年4月27日 油彩・麻布の作品で、東洋の美に目覚めた後の作品です。
「妻・蓁」
「黒き土の上に立てる女」1914年7月25日 油彩・麻布
妻・蓁をモデルに描いた作品は2012年、51年ぶりにその所在が確認されたとのこと。健康的で大地と繋がっているような女性の姿が、少しルノワールに通じるかなぁと思いました。今回の展覧会ではとても目を引く作品でした。
「画家の妻」1915年1月10日 油彩・麻布
こちらは同じく妻・蓁をモデルにしながら「クラシックの感化」を感じさせる作品。北方ルネッサンスに惹かれていたとか。背景の装飾や文字、R(=劉生)のエンブレム等、中世絵画を思わせます。
「娘・麗子」
岸田最愛の娘・麗子。本当に慈しんでいたようです。それは展覧会の説明に書かれている麗子さんの発言からも感じ取れます。
パンフレットの絵は「麗子肖像(麗子五歳之像)」1918年10月8日。この絵に自信を深めた岸田は「内なる美」を求めて東洋の美へと傾倒していきます。
「麗子坐像」1919年8月23日 油彩・麻布
麗子が着ている着物は縮緬絞りまで実に細かく写実的に描かれています。ただ、麗子の表情が無表情のため少し「怖さ」も感じますが。
「麗子八歳洋装之図」1921年9月27日 油彩・麻布
こちらの麗子ちゃんは少し笑みを浮かべています。やっぱり微笑む顔はかわいいですよね。「麗子」を書き始めたころは顔に表情がないのですが、この頃の絵からは麗子ちゃんが微笑んでいてかわいらしさを感じます。麗子さんご本人の弁では、絵を描くと集中して長時間モデルをさせられるので大変だったとのこと。その結果の名作誕生ですね。
(3) さいごに
この他にも肖像画や日本画等、いろいろな作品があります。かなり画風が変転しているのも分かります。油絵から日本画と振り幅も大きいです。そんな中、思ったのは、まず岸田は自画像、愛娘・麗子、最愛の妻・蓁と同じモチーフを何度も描いているということ。風景画も代々木の自宅周辺、静物画も林檎に冬瓜と同じモチーフを描きます。それが岸田の芸術へのこだわりであり、身近なのも、愛するものとのかかわり方だったのかもしれません。そして、写実的でありながら、どこかデフォルメされている作品たち。麗子像や肖像画等、少し顔や頭が大きく描かれているように思います。また、代々木の坂など、写実的な表現ですが、どこか誇張が含まれている。それが岸田の眼が捉えたものに、岸田の想いが込められて形作られた造形だったのかもしれません。
癇癪持ちで人付き合いも決して上手くはなかった岸田。絵を描き始めると周囲のことも忘れ、時間も忘れて没頭する岸田。自らの愛すべきものを自ら愛する絵画に託して表現し続けた岸田劉生の芸術と人生を回顧する展覧会だったと思います。
なお、本展は11/2~12/22、岸田の最期の地・山口の山口県立美術館に巡回します。
それでは、最後にリンクです。
東京ステーションギャラリーさんの過去の展覧会。
こちらは10月の展覧会です。
チョッと寒さも感じるようになってきましたが、今日はいよいよ日本が初めて挑むラグビーワールドカップ準々決勝。こちらも盛り上がってきます。
ということで、以上です。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました!
ではでは。